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2015年6月29日

読書日記「東京藝大物語」(茂木健一郎著、講談社刊)


東京藝大物語
東京藝大物語
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茂木 健一郎
講談社
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脳科学者であり、マスコミにしばしば賑やかに登場している「著者初の小説」

そんなご本人発のツイッターが、このところしきりに私のメールに飛び込んできていた。

知人が著者のツイッターのフォロワーになっているためらしい。

なにかプライバシーを侵されているようで、あまりいい気分ではないが「久しぶりにエンターテイメントを楽しむのもいいか」と、この本を買ってみた。

小説というより、著者が2002年から5年間、東京藝大の非常勤講師をした時の学生と講師陣との交流の記録に近い。学生と著者らが繰り出す葛藤、心の交流は、著者自身を含めた「青春小説」のスタイルだが、登場するのは、すべて実在の人物であるようだ。

この"小説"の主人公の1人は、4浪して東京藝大に入った植田工(たくみ)。「てかてかと赤い顔をして・・・両手をジャガーのようにそろえて、前のめりに飛びかかろう」とするから、つけたあだ名が「ジャガー」

 

現在は、茂木健一郎の"書生"をしながら、アートの勉強を続けている。

もう一人は1浪の蓮沼昌宏。ちょっとどもる癖があり「公園の鳩をスケッチする」ことに燃えているから、あだ名は「ハト沼」

現在は、町田市在住。藝大で博士号を取得、ハトの絵は描き続けている。

教壇に立った茂木は当初、自分の持論である「クオリア(意識のなかの質感)」や色彩の知覚などの話しをしていたが、呑み会をするようになって、茂木講座はがぜん盛り上がるようになる。

場所は、大学と同じ上野公園にある東京都美術館(通称・トビカン)前の広場。丸い椅子や砂場などがある場所だ。

いつも、著者が出したなにがしかの金を握って、ジャガーとハト沼が缶ビールやワイン、日本酒を買ってくる。

何人かが「面倒くさそうな芸術談議」をしており、ハト沼はいつのまにか衣装デザインをしている菜穂子と近くのブランコで揺れている。

ふらりと、講義にも出ていない杉原信幸(あだ名・杉ちゃん)が現れる。

杉原は、奇行が絶えない。近くの食堂ノガラスの天井に泥や椅子、テーブルの芸術作品を作ったり、日韓合同のアート展で首から上だけ出して土に埋まったり・・・。卒業展では、縄文原人姿で現れ、自分の作品を壊して、下のホールに突き落としてしまった。

今は、長野県在住のアーティスト。一昨年には、朝日新聞文化財団の助成で「原始感覚美術展」を開いた。

様々なアーティストなどが講義のゲストに来るようになる。

最初は束芋(たばいも)さん。アニメーション作品 「にっぽんの台所」で一躍時代の寵児となった若手女流作家。

聴講もぐりを含めて満員の会場に登壇した束芋さんは、芸術論は一切語らず「就職活動って、どういうことか分かっていますか」と、学生たちに「必殺の一発」をかました。

束芋さんは、 京都造形芸術大学に入学する時も、卒業時の就職活動でも、いくつもの辛酸をなめた経験がある。

 

東京藝大に合格した学生で、作品を売って食えるのは、ほんの一握り。一説には、十年に一人出れば良い、という。だから大抵の者は、喝采も浴びず、話題にもされず、ただ黙々と、・・・キャンパスに向い会い続ける。下手をすれば、東京藝術大学に合格した時が、人生の頂点だった、ということになりかねない。



現代アートの旗手と呼ばれる大竹伸郎さんがゲストで来た時には、満員の教室全体が「おお~」とどよめいた。

 
大竹さんは、開口一番、烈しい口調で断じた。

「おまえら、分かっているのか!東京藝大なんて来ているようじゃ、アーティストとしてダメだ、そもそも、美大になんか意味がないっー・」

指を突き出す。目がぎょろり。誰も見返すことなどできない。 ・・・

それから打って変った穏やかな口調で、大竹さんは自分自身の辿ってきた道を振り返り始めた。

・・・

権威とも、大組織とも関係なく、自分の道を追求してきた大竹伸朗さん。たえざる努力と貫く反骨。そんな生き方をしてきたアーティストだけが持つ説得力。・・・学生たちが、ぐっと惹きつけられる。



呑み会の席で、杉ちゃんが大竹さんにしきりに絡みだした。

 
「お前の作品になんか、興味がないんだよー⊥
「なにい!?」・・・
 
大竹伸朗さんが、仁王のような形相で、杉ちゃんをにらんでいる。杉ちゃんも負けずに、にらみ返している。
・・・
大竹さんは、すっと公園の暗がりの方に歩いていった。
・・・
その時である。
「てめ~、この野郎!」  
突然、大竹伸朗さんが、踵を返すと、森を駆ける熊のような勢いで駆け戻ってきた。・・・
 
あっという間もなく、大竹伸朗さんの右足が、杉ちゃんに向かって蹴り上げられた。・・・
大竹伸朗さんのつま先が、見事に、杉ちゃんが持っていた紙コップをとらえた。
 
紙コップは、杉ちゃんの手を離れ、放物線を描いて、夜の上野公園の暗闇の中を飛んでいく。中に入っていたビールが、動く流体彫刻となって、ほとばしる。・・・
期せずして、拍手が起こった。


 

「卒業制作」が近づいたころ、学生たちが熱望していた福武總一郎さんが講義に来てくれることになった。
ベネッセ・コーポレーションの会長である福武さんは、私費を投じてはげ山だった 直島を「現代アートの聖地」にしたことで知られる。

 福武さんはいきなり、「東京なんてキライだ」と叫んで、学生たちの度肝を抜いた。それから、「東京の真ん中の、こんな芸術大学で学んでいても、アートのことなんかわかりはしないー・」と断じた。
・・・

「公立の美術館だと、作品選定など、どうしても総花的になってしまうんです。とりわけ、現代アートの作家を収蔵するのはなかなか難しいと言われている。その点、個人の思いがかたちになった 地中美術館は、特色を出すことができるのです。そもそも、アートというものは個の思いが結実したものであり、最大公約数を求めるものではありません。それに対して、東京や、東京牽大のようなところは、最初から中心や、最大公約数を求めすぎるんじゃないのかな。」



   

呑み会では、福武さんは砂場の横の丸椅子の上に立って、またぶった。

「大衆を鼓舞し、先導し、この素晴らしい国を創るために、アートは存在するんだっ!下手くそな画学生よ、君たちの芸術には、本当は、世の中を変える力がある。それほどアートは、人を煽動する、そして洗脳する、そんな力がある。君らは、アーティス一になりたいのか、それとも、作品を通して、世の中を変えたいのか。お前らはこの世の中をよりよいものに変えるために、どういうポジションを、目指そうとしているのか。今日は、私はそれが言いたいがために来た。しかし、あの、東京藝大の教室という、オフィシャルな席では絶対に言えない。だから、こういう席で、こういうことを言うのが、私の、最後の、未来への遺言なんだよ、諸君!」


「卒業制作展」では、1人の日本画専攻の女学生・松井久子の作品 「世界中の子と友達になれる」が、入場者の目を惹いた。

満開の、藤の花が描かれている。上から垂れている花の群れの中を、ひとりの女の子が、前屈みになりながら進んでいる。・・・
もっと近づいて、よくよく見ると、美しい藤の花の連なりの先に、黒く垂れ下がっているものがある。・・・じつくりと観察してみると、それは、「熊ん蜂」の群れなのである。・・・
 
ぶーんと、彼らの立てる羽音が通奏低音として聞こえてくるような、そんな不気味さが、 美しく、可憐な藤の花の先に隠されている。その中を、無邪気に歩んでいるかのように見えた可憐な少女も、改めて見ると、その目に底光りする狂気をはらんでいる。


 
真剣な顔をして隣で見ていたジャガーに声をかけた。
「お前ら、やられたなあ。」
「へいっ。」
「完敗だなあ。」
「へいっ。」
「これで、終わったな。」
「へいっ。」


2011年9月11日

紀行「ザ・ノグチ・ミュージアム(米国・ロングアイランド市、2011・8・18)


 この 美術館(ホームページに日本語解説)は、米国人を母、日本人を父にもつ彫刻家、 イサム・ノグチが、自ら財団を作って所蔵作品を集め、1985年に開設した。
 以前このブログに書いた 「イサムノグチ 宿命の越境者」(ドウス昌代著)や映画 「レオニー」(松井久子監督)にふれて以来、ここにはぜひ行きたいと思い続けてきた。

 当初は、ニューヨークに着いた2日目の14日(日)に、日曜だけマンハッタンから出る有料シャトルバスに乗るつもりだった。
 ところが、あいにく2カ月分の雨量が1日で降ったという大雨。ホテルに近い セント・パトリック教会 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に行くだけで時間がなくなってしまった。

 やはり小降りにはなったが、雨がやまない16日(火)。地図では黄色で表示されている 地下鉄「N、Q線」に乗った。

以前は、ニューヨークの地下鉄と言えば、構内、車内での落書きや凶悪犯罪行為が続き評判が悪かった。20数年前にニューヨークに仕事で来た時も、1人で乗る勇気がなく、デトロイトからわざわざ出張名目で来てくれた大学時代の友人・Nに連れられて、こわごわ体験乗車したことを思い出す。

 マンハッタン・レキシントン通りの駅から4つ目。イーストリバーを越え、地上に出てすぐの駅名がなんと「ブロードウエー」。確かに、駅と直角に同じ名前の通りが走っていたが、あのニューヨークのミュージカルで有名な 「ブロードウエー」とは、まったく別の通り。「ブロードウエー(広い道)」は"目抜き通り"の意味らしく、米国各地にあるようだ。

   やっと雨が上がったこの通りを20分近く歩き、突き当たりを右折して2ブロック。自動車工場や倉庫に囲まれて、工場を改装したとは思えない一部レンガ造りの瀟洒な建物が、目指す美術館だった。できた当初、地元の人は「日本人の建てた別荘」ぐらいにしか思っていなかったらしい。

 小さな入口が、なぜか開かない?・・・。ぐるりと回って、事務所の鉄製ドアーをたたくと、出てきた小柄な女性が「今日は、サンクスギビング(休日)」と。月曜日が休館日だというのは確認して出かけたのだが、連休とは・・・。ブロードウエーをむっつり戻る。雨はすっかり上がり、暑い日差しが戻ってきた。「ああ、かき氷が食べたい」。入ったスーパーストアーで売られていたシャボテンの葉が気になった。

地上に出た地下鉄[N・Q線」;クリックすると大きな写真になりますブロードウエー駅;クリックすると大きな写真になります中庭にある石柱;クリックすると大きな写真になります石のくぐり戸;クリックすると大きな写真になります
地上に出た地下鉄[N・Q線」ブロードウエー駅中庭にある石柱(イサム・ノグチ美術館で)石のくぐり戸、リラックス!
目玉の石と松の木;クリックすると大きな写真になります水が流れる黒いつくばい?;クリックすると大きな写真になりますサボテンを売る駅前スーパー;クリックすると大きな写真になります
目玉の石と松の木(イサム・ノグチ美術館で)水が流れる黒いつくばい?(イサム・ノグチ美術館で)サボテンを売る駅前スーパー
 あきらめるつもりだったが、実質最終日の18日。「やはり、もう一度」と同行Mに肩を押され、再度「ブロードウエー駅」に降りた。

 入場料は、シルバー割引で5ドル。入ったとたんに「しだいに《石に取りつかれて》いった」(ドウス昌代)というイサム・ワールドが飛び込んで来る。

 大理石、玄武岩、花崗岩・・・。石だけではない。ステンレスや鋳鉄、角材、青銅、アルミ板など様々な材料を使った彫刻がゆったりと間隔を取って置かれている。自然光を取り入れた2階建て、延べ2500平方メートルの館内には、10室のギャラリーに分かれている。塑造や、ゆるやかなタッチで描かれた裸婦や猫の墨絵もある。

 それぞれの制作意図は分からなくても「ああ、この造形いいな」と思えるものがいくつもあり、なんだかほっとできる不思議な空間だ。

 1階からも2階からも自然に入り込める庭園が、また良い。松や竹、ニレのような大木を配置した石庭風の敷地に、大きな目玉をのぞき込みたくなる石柱や真ん中のくぼみから静かにあふれ出た水が壁面を流れ落ちる大きめのつくばいのような黒大理石。  イサム・ノグチは、日本に滞在していた時、昭和初期の作庭家、 重森三玲が造った庭を熱心に見て回った、という。

 その影響を確かに受けていることは感じるが、同時にアメリカの風土が持つカラリとした明るさもある。春には、コブシや枝垂れ桜も咲くらしい。

 この美術館の正式名は「イサム・ノグチ庭園美術館」。日本の四国・高松にあり、どうしても行ってみたいと思っている 「イサム・ノグチ庭園美術館」と同じ名前なのである。

 やっと朝から快晴になった17日(水)には、ニューヨークに来れば逃せない メトロポリタン美術館を訪ねた。それも、ニューヨークにいる娘が親しくさせていただいている方が、この美術館の友の会?メンバーで、我々をゲストとして無料入館させもらえるという。

 約束の午後1時前。美術館向かいの高級マンションらしい建物前の植え込みに座って娘を待つ。なんと、そのマンションの高層階が招待していただいたEさん一家の住まいだった。セントラルパークが一望できるお宅でお茶をごちそうになり、ご主人のご厚意という分厚い美術館ガイドまでいただいた。案内していただいた美術館入り口で、胸に付けるアルミ製の青いバッジを受け取る。お世話になりました、Eさんご一家。

 前回来た時にわけも分からずウロウロして、すっかり疲れたことを思い出し、見るのは2階の「ヨーロッパ絵画」に限った。

 ルノアールのゆったりした名品の数々。モネの「睡蓮」、ゴッホの名作が、これでもか、これでもかと押し寄せる。スーラ、ピカソ、マネ、ミレー、クールベ、ドガ、セザンヌ・・・。ウイーンでたっぷり見たクリムトも数作。
 「そうだ、フェルメールを見ていなかった」。ギャラリーを何度も行き来し、案内の人にたずねてやっと「水差しをもつ若い女」「若い女の肖像」「信仰の寓意」に出会えた。

 一休みしようと、屋上庭園カフエに出たが、暑い!周辺の摩天楼をカメラに収めただけで逃げだし、また2階をウロウロ。膨大な作品群に圧倒され、疲れはて、1階にある巨大なエジプト「デンドウ―ルの神殿」の奥にあるカフエにどっと座り込んだ。

 鉄鋼王のコレクションを集めた 「フリック・コレクション」も2度目だが、フェルメールの作品が3つもあるのは初めて知った。
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」;クリックすると大きな写真になりますゴッホ「ひまわり」;クリックすると大きな写真になりますクリムトの作品;クリックすると大きな写真になりますミレー「干し草の山」;クリックすると大きな写真になります
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」(メトロポリタン美術館で)ゴッホ「ひまわり」を初めて見た!(メトロポリタン美術館で)おなじみクリムトの作品(メトロポリタン美術館で)ミレー「干し草の山」(メトロポリタン美術館で)
フエルメール「若い女の肖像」レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼;クリックすると大きな写真になりますエジプト「デンドウール」の神殿;クリックすると大きな写真になります
フエルメール「若い女の肖像」(メトロポリタン美術館で)レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼(メトロポリタン美術館で)エジプト「デンドウール」の神殿(メトロポリタン美術館で)


 近代美術館(MoMA)では「ここでしか見られない」ことで評判のセザンヌ・「水浴する人」、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」だけでなく、アメリカ近代・現代を代表するポロックの「ワン;ナンバー31」、リキテンスタイン・「ボールを持つ少女」、ウオーホル作「ゴールド・マリリン・モンロー」にも初めて出会えた。いやー、満足、満足!
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」;クリックすると大きな写真になりますセザンヌ「水浴する人」;クリックすると大きな写真になりますウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」;クリックすると大きな写真になりますリキテンスタイン「ボールを持つ少女」;クリックすると大きな写真になりますポロック「ワン;ナンバー31」;クリックすると大きな写真になります
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」(MoMAで)セザンヌ「水浴する人」(MoMAで)ウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」(MoMAで)リキテンスタイン「ボールを持つ少女」(MoMAで)ポロック「ワン;ナンバー31」(MoMAで)


 19世紀の終わり、アメリカの世界的規模の美術館がないことを憂えた実業家たちの会合で、メトロポリタン美術館の開設を決めた時、建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった、という。
 建国してたった200余りで世界トップクラスの所蔵を誇る美術館を持つ。アメリカという国のすごさを思う。

 9・11、10年を迎えた。訪ねた「グラウンド・ゼロ」では、記念公園の整備と新しい高層ビルが建設中だった。 br />
 テロとの抗争、ドルの価値低下、経済の低迷。アメリカが悩んでいる・・・。それだけ、各美術館に遺された作品群が輝きを増しているようにも思えた。

2010年12月17日

読書日記「「忘れても、しあわせ」(小菅もと子著、日本評論社刊)、「寂寥郊野」(吉目木晴彦著、講談社刊)、「ターニングポイント」(松井久子著、講談社刊)

忘れても、しあわせ
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ターニングポイント-『折り梅』100万人をつむいだ出会い
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きっかけは、友人Mに誘われて先日見に出かけた映画「レオニー」だった。

 世界的な彫刻家、イサム・ノグチ の母、レオニー・ギルモアの生涯を描いた作品だが、松井久子監督、「ユキエ」折り梅」に続く3作目の作品だという。

 「ユキエ」はテレビの再放送で何度か見ていたが「折り梅」は知らなかった。DVDチェーンのツタヤにもなかった。大手映画館を通さない自主鑑賞会で100万人を越える観客を動員した作品らしかった。あきらめていたら、今月はじめ、たまたま芦屋市が人権週間の催しで「折り梅」の上映と松井監督の講演会を催すことを知って出かけた。

表題、最初の「忘れても、しあわせ」 は、その映画折り梅」の原作だ。

 夫と2人の子どもと暮らす平凡な主婦・もと子が義母と同居を始めた直後から、義母の認知症(痴呆)が始まる。

 「私の自由を奪ったあんたを殺してやりたい。私の胸の内がわかるか。心に突き刺さっている。私はあんたの胸を突き刺して殺してやりたい」
 泣きながら向かってきた。手に持っていたヘヤーブラシを私に投げつけ、
 「首をしめてやりたい」と両手を私の首に回した。


 絵画教室に通い出したことが、救いだった。
 「やるじゃん!」義母が描いているのをはじめて見ての私の偽らざる感想だ。淡いブルーと茶系の貝がひっそりと並んで、うまいなーーと思った。


 しかし、義母の暗さは治らない。
 口から出るのは、ためいきと「何のために生きているのか。私はあやつり人形だ」という言葉。


 仏壇の数珠がない。財布がない。「あんたたちがとった」。お菓子の盗み食い、徘徊・・・。

 旅行先の自然の中の義母の表情は、あまりに自然だった。
 「そうだ、治そうと思うのでなく、今できること、感じることをそのまま私が受け止めればよいのだ。・・・「母になろう」。そう決心する


 義母・マサ子さんは、大きな公募展「東美展」に入選、個展を開くまでになり、おだやかな日々が訪れた。たくさんの人に支えられた結果だった。

著書には、マサ子さんが絵を書いておられる様子や個展風景の写真があるが、ご本人の描かれた絵は載っていない。

しかし、映画「折り梅」の公式サイトのなかに、ちゃんとマサ子さんのコレクションがたっぷりと掲載されている。映画のように画像が鮮明でないのは、ちょっと残念だが・・・。

マサ子さんは、006年10月、90歳で亡くなった。最後まで人としての尊厳を重んじた医療を受け、たくさんの人や自分が描いた作品に囲まれての最後だった、という。

第1作、「ユキエ」の原作である「寂寥郊野」は、平成5年上半期の芥川賞受賞作品。

朝鮮戦争で来日した米国人のリチャードと結ばれた幸恵は、30年過ごしたルイジアナ州バトンリュージュで、突然アルツハイマー病に見舞われる。老いる2人が直面する"寂寞"感が胸を打つ。

この「寂寥郊野」という表題からは最初、なにかおどろおどろしい印象を受けた。
しかし読んでみて、米国。ミシシッピー河西岸に「ソリテュード・ポイント」という農作地帯があり、「寂寥郊野」はその邦訳であることを知った。この地で起こった農薬汚染問題が、この老夫婦を悲劇へと追い込んでいく重要な伏線になっている。

 ユキエは、訪ねてきた息子たちに言う。 
「つまり父さんは、私のこの状態を何か不当なことだと思っているのね。・・・でも、私は人間というものは、そんな具合にできていないように思うのよ・・・」


当時の芥川賞選者の1人、古井由吉は、こう選評している。
 今回はまっすぐに、吉目木晴彦氏の「寂寥郊野」を推すことができた。落着いた筆致である。急がず迫らず、部分を肥大もさせず、過度な突っこみも避けて、終始卒直に、よく限定して描きながら、一組の老夫婦の人生の全体像を表現した。なかなか大きな全体像である。しかも、たっぷりとした呼吸で結ばれた。主人公夫妻の、意志の人生が描かれている。このことは私にとって妙に新鮮だった。


 「ターニングポイント 『折り梅』100万人がつむいだ出会い」は、3つの映画を監督した松井久子さんの自叙伝。
20代は雑誌のライター、30代は俳優のマネージャー、40代のテレビプロデューサーを経て、50代になって映画監督という転職に恵まれ、挑戦を続けている。

「ユキエ」のシナリオを依頼した新藤兼人監督に、監督もとお願いに行ったところ、こう言われた。
 「これは私の映画じゃありません。あなたの映画ですよ。自分で撮らないでどうします。誰かに任せてしまったら、あなたの考えとまったく違う映画になってしまいます。それじゃ困るでしょう」 ・・・
「自分で撮りなさい。女の人が、もっと撮ったらいいんです」


この言葉が、松井さんを変えた。
3作目の「レオニー」は、映画化を決心してから完成まで7年をかけた。